気持ちの整理(そろそろ完結)

「気持ちの整理」そろそろ締めくくろう。
実は半年程前から、「こんな気持になれれば、気持ちの整理がついたと言えるのだろうな~」となんとなく思い始めたことがある。
「ひらめいた」と言うか、フワっと頭に浮かんできた。


それは「病気が軽かったことに感謝し、生かされていることに感謝する」である。
心底、こんな気持ちになれば、気持ちの整理がついたと言えるのではないかと。
ちょっと格好をつけているように人に言うのは簡単だ。
「いや~、生きていることに感謝の日々ですよ」
あまり落ち込んでいると心配をかけてしまうから、ちょっと「カラ元気」な感じで言ったり。

今でも一人で電車に乗ったりするとボーっと考えてしまう。
「ハァ…、なんで、こんな体になったんだろう…」
「ハァ…、なんで、こんなことになったんだろう…」
ため息と一緒に出てしまう。
「運命のいたずら」なのか、「罰」なのか、「試練」なのか。
「罰」なら何に対する罰か知りたい。
「試練」なら乗り越えれば何が待っているのか知りたい。
それともサイコロの目が私を指したの?
そんなことは誰にも分からないことは百も承知なのだけど。

この病気で意識を失うようなことはなかった。
救急車で運ばれている時も、病院で激しい頭痛が起きた時も、意識はハッキリしていた。
「死」の予感なんてなかった。
後からインターネットでいろいろ調べたら、脳幹の梗塞は死亡率が高いことが分かった。
一歩間違えれば、いや、脳梗塞がちょっとズレれば、死んでいたかもしれない。
それを知って、すごく「死」への恐怖が湧いてきた。
「死にたくない」、「まだまだやりたいことがある」、「息子が成人するのを見ていない」頭を巡った。
「俺は死ぬことなんて怖くない」こんなセリフは映画の中だけだ。
「生きているんだよ」「生かされたんだよ」
少しはそう思うようになってきた。

リハビリを兼ねて神社へ出掛ける。
別に信心深いわけではない。
家から歩いて25分。
歩行訓練にはちょうどよい距離である。
静かな場所で、自分を振り返るのにもよい場所である。
神社に行けば参拝する。
「神頼み」という言葉は好きではない。
でも自分の努力だけではどうにもならない事もある。
自分の努力だけではどうにもならない事は、「神頼み」してもよいと思う。
屁理屈っぽいが。
冒頭に「病気が軽かったことに感謝し、生かされていることに感謝する」と思えることが気持ちの整理と書いた。
心底この気持になっているか?、ホントに腹に落ちてそう思えるか?、がポイントと思う。
それはたやすいことではない。
神社で参拝するときも、
「病気が少しでも回復しますように」と願う。
だけど、その前に
病気が軽かったことに感謝し、生かされていることに感謝しなければならない。
お願いよりも、感謝が先だろぅ。
自分でも意識しているつもりだが、時折、感謝を置いといて先にお願いが出てしまう。
心底その気持に、まだなっていないのだと思う。

まだまだ、完全に気持ちの整理がついたとは言えない。
自分の心の中で、今の状態に納得できていない自分がいる。
こんな状態だから、まだ未来に目を向けられない。
「老後のこととか」

そう簡単には気持ちが変わるとは思えないが、すこしづつ変化していることは感じる。
体も気持ちも変化するには、時間がかかることなんだろう。
9月20日は記念すべき日ではないけど、来年のこの日、また気持ちを振り返ってみようと思う。

最後に「一年経過、気持ちの整理へ」で、「哲学的や宗教的にあまり話が向かわないようにしたい」と書いたが、ちょっと傾いてしまったかも。
ご勘弁を。