実母が亡くなりました。
4月の初めに胸の苦しみを訴え、一か月入院の末の出来事です。
母は昭和3年生まれの90歳。
歳も歳なので入院した時に、この結果はある程度覚悟していました。
実家は大阪で、母は父と兄と同居しています。
私は神奈川に住んでおり、このような体になってしまったため実家に帰ることが少し億劫になっていました。
そんな私ですが、去年の年末に久々に実家に帰りました。
両親のことで少し胸騒ぎがしたからです。
移動するのが少し不自由な私のために、兄が新大阪駅に車で迎えに来てくれました。
その時、母も一緒に来ました。
母は身なりを「きちんと」する人で、髪の毛をきれいにセットしお化粧をして、迎えにきてくれました。
「小ぎれいなお年寄り」
息子の私が言うのも何ですが、そんな言葉がぴったりな人です。
その日は元気な両親の姿を見ることができ、安心して帰路につきました。
妻には「胸騒ぎ」の話しをしていたので、「杞憂だったのか」などと話をした記憶があります。
そんな状態だったのですが、4月に「母が入院した」と兄から電話が来ました。
「一応、覚悟しておけ」
兄は言いました。
容体が上下する中、4月の中頃に少し落ち着いたので病院に見舞いに行くことにしました。
病院に到着して、ベッドに横たわる母を見つめました。
髪は乱れ、顔色は悪く、入れ歯を外したその姿は、まさに「老婆」でした。
そんな姿を「母がもっとも嫌がっていることだろう」と私は思いました。
胸水がたまっている状況で、息をするのも苦しそうでした。
私は一生懸命に声をかけました。
「私」ということを認識してもらえるように、「東京から帰ってきたよ」と繰り返しました。
意識がもうろうとしている中、言葉にはならない声を発して母は返事をしてくれました。
もう長くはないことを私は悟りました。
苦しさの伴う延命治療は行わないことを、兄と合意をしていました。
そのことと、痛みや苦しみを緩和する治療は行って欲しいことを病院に伝えていました。
兄は「がんばって食事を食べて、薬を飲まないと元気になれないよ」と母に声をかけていました。
でも、私は「がんばって」とは言えませんでした。
結局、最後までそれを言うことはできないでいました。
苦しそうな姿が「寿命が尽きることを自ら望んでいる」ように見えました。
「もう苦しさから解放してあげよう」
そう思ったのは事実です。
私は大きな病気を経験して、こうやって「生きていることは何か意味があること」と思う日々です。
でも母の姿を見て、母の望みを感じたように思えました。
その望みを実現させるかのように、5月1日に母は静かに旅立ちました。
お母様がお亡くなりになったとの事、お悔み申し上げます。
私は一度心配停止になり蘇生しました。
その時に脳梗塞になり、ワレンベルグ症候群になりました。
それから昨年に二度、大腸ガンで手術をしています。
もう生かされているようで、このまま無事に人生を歩んで行こうと思っています。
一時はいつ死んでもいいと思っていました。
今は完治しないと思うけど、なるべくこのまま調子を落とさず生きて生きたいと思います。
気を落とさずどうぞお疲れの出ませんように。
こんばんは
ご心配いただきありがとうございます。
生かされている感覚は良く分かります。
私もこの体を自分で受け入れて、りきまないで生きていくのも必要なのかと最近は感じています。
母は十数年前に大きな病気をしたのですが、母から弱音を聞いたことは一度もありませんでした。
私は嫁に弱音ばかり言っています。
そんな母を見習わなければと思う日々です。