母が亡くなり葬儀が行われました。
実家が遠方の都合上、わたしは通夜には出席できず告別式からとなりました。
新大阪から一時間ほどで斎場に到着しました。
すでに親戚や兄弟は到着していました。
わたしは母が亡くなった実感を持てないままの到着でした。
祭壇は母が好きだった紫色の花で埋め尽くされていました。
母は淡い紫の色が好きでした。
その色にこだわって、お酒はバイオレットフィズ(カクテル)を好んでよく飲んでいたことを思い出しました。
遺影は薄紫色の額縁で、そっと母はほほ笑んでいます。
わたしと一緒に妻と息子も出席しました。
息子は今年17歳。
わたしが17歳の頃は、親に反抗ばかりしていた時。
バイクで事故を起こしたり、学校をサボって友達の家を泊まり歩いたりと、親に心配ばかりかけていました。
そんなわたしに、いつも味方になってくれていたのは母でした。
母が17歳のときは、昭和20年。
終戦で大変な青春時代だったのだろうと想像します。
まさに激動の昭和史を生きてきたのだと思います。
最後のお別れの時がやってきました。
右手でそっと母の頬に触れました。
まだ母の体温が残っているような感じを受けました。
でも、すぐに思い出しました。
わたしの右側はワレンベルグ症候群で温痛覚がないことを。
再び、今度は左手で触れてみました。
そこには、冷たくなった母の頬がありました。
涙が止めどなく流れました。
母が亡くなったことをここで実感しました。
葬儀は滞りなく終わり、その夜はホテルで一泊しました。
わたしはボーっとテレビを見ていました。
ある番組で、母親が子供に対して気持ちを語っているシーンがありました。
「わたしの子供として生まれてきてくれてありがとう」
それを見ながら、母もきっとそんな気持ちで、愛情をいっぱいにわたしに接してくれていたのだろうと感じました。
そして、母に対してわたしたち子供は言います。
「私を生んでくれてありがとう」
「一生懸命に育ててくれてありがとう」
と。
私がこの体になってから、母が何回も兄に言っていたことがあるそうです。
「できることなら、私が(息子と)かわってあげたい…」
年老いた母に、そんな心配をかけていたのかと思うと申し訳ない気持ちでいっぱいです。
ごめんなさい。
ずっとずっと心配ばかりかけて。
あなたの子供として、わたしはとても幸せでしたよ。
人から人へ優しさが伝わり、また別の人へと優しさが広がる。
人は弱くて脆い生き物だから、互いに支え合って生きています。
人生は十人十色、様々ですが、お母さまはきっと幸せだったでしょう。
こんなにも優しい言葉を紡ぐことが出来るお子様がおられるのですから。
そして、受け継がれたその優しさは、今後も人を伝って、更に広がるはずです。
私も若くに家族を亡くし、つらい思いもしました。
のすけパパ様の悲しみが、いつの日か晴れますように。
こんばんは。
ブログにお越しいただき、ありがとうございます。
そして、お心遣いありがとうございます。
「人は弱くて脆い生き物だから、互いに支え合って生きています。」
このお言葉、私もしみじみと思います。
病気になってから、今までどれだけたくさんの方に支えられてきたことか。
頂いた優しさを、もっともっとたくさん返さなければと思っています。
母もきっとそんなことを願っていることと思います。